『第一政治書簡』



  ユダヤ人が今日わが民族に対して持っている危険は、我が民族の大部分が抱く抜きがたい嫌悪感のうちに表現されているが、この嫌悪感は、ユダヤ人が意識的無意識的に我が民族に及ぼす計画的かつ有害な作用を明確に認識した結果生まれたのではなく、個人的な交際を通じてユダヤ人が個人として残す、ほとんどつねに不愉快な印象に大部分としては基づいているのである。そのため、反セム主義はしばしば感情的現象の性格を帯びることになる。しかし、これは全くの誤りである。政治運動としての反セム主義は、感情的要因によって規定されてはならないし、むしろ事実の認識によって規定されるべきである。その事実とは次のごときものである:

 第一にユダヤ人は、疑問の余地なく一つの人種であって、宗教的共同体ではない。さらに、ユダヤ人は自らを、決してユダヤ系ドイツ人、ユダヤ系ポーランド人、あるいはユダヤ系アメリカ人としてではなく、常にドイツ系、ポーランド系、アメリカ系ユダヤ人として描写する。ユダヤ人は、彼らがその直中に生活している外国の人民から、彼らの言語よりも多くを、吸収したことは一度もない。フランスにおいてフランス語を、イタリアにおいてイタリア語を、および支那において支那語を使用せざるをえないドイツ人が、それによってフランス人にも、イタリア人にも、ましてや支那人になることもないし、我々の中に偶然居住していてドイツ語を使用せざるをえないユダヤ人をドイツ人と呼ぶこともまたできない。寄せ集めの信仰さえが、その人種の保存のためにはいかに重要であろうと、誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないのかを決定するための単一の基準にはなりえない。全成員が皆単一の宗教に属している人種は、世界にほとんど存在しない。

 数千年にわたる同族結婚、しばしばごく狭いサークル内での同族結婚によって、ユダヤ人は彼らがその中で生きた数多くの他民族よりも、全体としてはその種族とその特質を厳しく保持してきたのである。かくて、我々の中に一つの非ドイツ的な外国人種が生息するという事実が生じたのである。彼らは、自己の民族的特性を犠牲にするつもりはなく、彼ら自身の感情、思考、努力を捨てる気もないのだが、にもかかわらず我々と同様に政治的権利の全てを所有しているのである。ユダヤ人は感情からしてすでに純粋に物質的に動いているが、その思考と努力は一層然りなのである。我々の内的感情から見れば、黄金の仔牛の周りを巡る踊りは、決してこの地上における至高のものではなく、また努力に値する唯一のものではありえないのであるが、彼らユダヤ人は、かかる財宝をめぐって仮借なき闘争を続けている。

  個々人の価値はもはや性格や、全体に対する行為の意義によっては決められず、財産や所持する金銭の多寡によってのみ決められるようになる。国民の高貴さは、もはやその倫理的・精神的力の総量によって測られるべきではなく、ただその物質的財産の豊かさによってのみ測られている。

 かくして、かの金銭を求める思想、金銭を求める努力が生まれる。この思想、努力を擁護する力は、財産の選択においてユダヤ人を良心なきものとし、この目的のために財産を消費することにおいて仮借なき態度をとらせる。ユダヤ人たちは専制支配の国家の中において、王侯たちの「尊厳」の恩寵を求めて集まり、それを諸民族へ憑く蛭として悪用する。

 彼らは民主主義の下では大衆の恩寵を切に求め「民族の尊厳」の前で這いつくばり、しかも金銭の尊厳をのみ知っている。

 ユダヤ人はビザンツ風の甘言により統治者の品位を、欺瞞と非行への恥知らずな誘惑とにより民族的誇りおよび民族の強さを、徐々に弱らせた。ユダヤ人が選んだ武器は、新聞により歪められた輿論である。ユダヤ人の権力は、利子の形でかくもたやすくそして果てしなく蓄積する金銭の権力であり、それによって彼は、その煌びやかな装い、その直接的な結果においてさらに凶悪な支配を、民族の上に課すのだ。人民により大いなる物を得るべく奮起させるものはすべて、宗教、社会主義、あるいは民主政治だろうと、権力を求める貪欲さと渇望とを満足させる手段としてユダヤ人の役に立つだけである。ユダヤ人の活動はその結果において、諸民族の人種的肺病となる。「ユダヤ人の劣等で犯罪的な性格は、彼らの人種としての特性に基づくものであるから、我々が外部からどのように努力してみても改善させることは不可能である。彼らは金銭を得るために手段を選ばないし、その金銭の利子によって諸民族を抑えつけている。」

 そしてそこから次のことが結果する。すなわち、純粋に感情的な諸理由からの反ユダヤ主義はその究極の表現をユダヤ人迫害のうちに見出すであろう。しかし理性の反ユダヤ主義は、ユダヤ人が他の、我々の間で生活している他の外国人と違って所有している特権を、計画的・合法的に駆除・除去することを目指さねばならない(外国人法制定)。しかし、反ユダヤ主義の究極の目標は、断固としてユダヤ人そのものを除去することにあらねばならない。この2つのことを成すには、国民的力を持った政府だけができうるのであり、国民的無力の政府は何もできないのである。

  共和国はその誕生を、我らが国民の統一された意志にではなく、一連の状況の内密の利用に負っており、それらは深い不満の中に自らを表現した。これらの状況は政治構造とは独立に生じたのであり、今日でさえも作用中である。実に今は、かつてよりもそうである。この理由により我れらが国民の大部分は、国家構造それ自体を換えることによってではなく、国民の道徳的および精神的力を再生させることによってのみ、我々の地位は改善されうるのだと認識するようになった。

 そしてこの再興は、党の教義、国際主義のキャッチフレーズ、あるいは無責任な新聞のスローガンの影響を受けた無責任な議会多数派の指導下では準備されない。内なる責任感を備えた民族気質の指導者たちの、断固たる行動によってのみ可能である。

 まさにこの事実が、いかなる国家もがひどく必要としている精神力の内面的支持を共和国から奪うことに奉仕している。かくして、国家の形態を変えることにより受益してきたし、そして受益し続け、また、まさにその理由から革命の背後で駆動力となった人々――ユダヤ人たち――による支持を、国家の現在の指導者たちは求めざるを得ない。ユダヤ人の危険は今日の指導者たちによってさえ疑いなく認識されているのだが、それを顧慮することなく、これらの男たちは私的特権のため、ユダヤ人たちによる支持を受け入れざるをえず、また、これらの支持に報いざるを得ない。これらの支持への返礼は、あらゆるユダヤ人の要求を満たすことのみならず、とりわけ、反セム主義運動を妨害することにより、詐欺師たち[ユダヤ人]に対する人民の闘争を防止することを含む。

 敬具

 アドルフ・ヒトラー




  ユダヤ人問題について永続的に頑固になるには、映画や演劇の不愉快な駄作の広告を見て、そこで誉めそやされている作者の名前を学びさえすればよい。そこにはペスト、民衆が感染している道徳的ペストがあった。それはかつての黒死病よりも悪質だった。(『我が闘争』)



  しかも、この毒素がいかに多く製造され、ばらまかれたことか。当然ながら、こうした芸術的製造業者の道徳的および知的水準が低ければ低いほど、それだけ彼の肥沃さは無尽蔵になる。ときどきこれらの輩の一人が、汚水ポンプのように行動して、汚物を人類の他の一員の顔面に直接に放つことにさえに至るのだ。それは恐ろしいことだ。しかし、さらに大きな数のユダヤ人が、この不名誉な使命を担うべく自然によって特別に設計されたように見えることを看過してはならない。(『我が闘争』)



  ユダヤ人の新たな民族意識はパレスティナでのユダヤ人国家建国によって満足されるのだと他の世界の人々に信じさせようとシオニストたちが努力するとき、お人好しな非ユダヤ人を騙すべく、それに関してユダヤ人はもう一つの手段を採るのだ。彼らには、パレスティナにユダヤ人国家をそこに住むことができるように建国しようなどという意図は微塵もない。彼らの真の狙いは、国際的な詐欺とペテンのための中央組織を設立することにある。主権国家として、これは他のいかなる国家にも支配されえない。したがってそれは、正体を見破られた詐欺師の避難場所と同時に、その他の詐欺師の訓練のための高等学校として役立ちうるのだ。(『我が闘争』)。


 

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