アウシュヴィッツ: 神話と事実


マーク・ウィーバー

 ほとんど誰もが、アウシュヴィッツという名を耳にしたことがあるだろう。それはドイツが戦争中に作った収容所で、多くの囚人 (大部分はユダヤ人) がガス室で大量殺戮されたと伝えられている。アウシュヴィッツは、ナチスの絶滅収容所の中でも、最大規模の収容所だったと見做されている。しかしこの収容所の悪い評判は、事実と符合しない。

* 学者たちはホロコースト物語を疑問視

 驚くべきことに聞こえるかもしれないが、ますます多くの歴史家・技術者たちは、広く出回っているアウシュヴィッツ物語を疑問視している。もちろん「見直し論」の学者たちは、多くのユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されたこと、そこで多くの人が死んだこと (特にチフスや他の病気によって) を否定しない。しかし、見直し論者が参照する動かぬ証拠からは、アウシュヴィッツが絶滅収容所ではなかったこと、そして「ガス室」大量殺戮は神話であることが分かってくる。

* アウシュヴィッツ強制収容所

 アウシュヴィッツ収容所は、現在の南部ポーランドに1940年に建設され始めた。1942〜44年半ばの間に、多くのユダヤ人がここへ移送された。

 収容所の中心は第1アウシュヴィッツとして知られている。ビルケナウ、第2アウシュヴィッツは絶滅収容所、そしてモノビッツ、第3アウシュヴィッツは巨大産業センターだった。この産業センターでは、石炭からガソリンが作り出されていた。それに加え、多くの小さな収容所が戦争経済を支えるために作られていた。

* 400万人の犠牲者?

 連合国は戦後のニュルンベルク裁判で、ドイツがアウシュヴィッツで400万人を大量殺戮したと嫌疑をかけた。この数字はソ連が言い出したものであり、それが、その後何年間も無批判に広められた。例えば、この数字はアメリカの大手新聞・雑誌にもしばしば掲載された。

 現在、ひとかどの歴史家なら、たとえ絶滅の話を大筋で認めている人でも、この数字を信じている人などいない。イスラエルのホロコースト歴史家イェフーダ・バウアーは1989年、出回っている400万人という数字が意図的な神話であることを認めた。1990年7月、ポーランドの国立アウシュヴィッツ博物館、イスラエルのヤド・バシェム・ホロコースト記念館は突然、死者総数はユダヤ人、非ユダヤ人を合わせて恐らく100万人との推定を発表した。そしてどちらの機関も、殺害された人数、ガスの犠牲となった人数について言及していない。ホロコーストの卓越した歴史家ジェラルド・ライトリンガーは、「アウシュヴィッツで死んだユダヤ人は恐らく70万人程度」と推定している。より最近の例では、歴史家ジャン・クロード・プレサックは死者総数を約80万人と推定し、そのうち63万人がユダヤ人だったと述べている。この少ない数字ですら誤りであるが、いずれにせよ、これらはアウシュヴィッツ物語が劇的に変化したことを示している。

* 奇妙な話

 かつて「ユダヤ人はアウシュヴィッツで組織的に感電死させられた」と大まじめに伝えられたことがあった。アメリカの新聞は1945年2月、解放されたアウシュヴィッツのソ連人証言者の話として、次のような話を伝えた。ユダヤ人は電気コンベヤーの上に乗せられ、何百人もが瞬時に感電死した。死体は火葬炉に運ばれ、すぐに灰となり、それは近くのキャベツ畑の肥料となった。

 ニュルンベルク裁判では、アメリカの検事団長ジャクソンの嫌疑が述べられた。それは、ドイツ人がアウシュヴィッツ近郊で、「新しく発明した」装置により瞬時に2万人のユダヤ人を「蒸発させた」という嫌疑である。ジャクソンは、その装置は精巧で「何の形跡も残さなかった」と述べた。現在、まともな歴史家の誰一人として、このような作り話を信じてはいない。

* ホェスの「陳述」

 ホロコースト文書の鍵は、元アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ホェスが1946年4月5日に述べた「陳述」である。これはアメリカ検事団によって、ニュルンベルク裁判に提出された。

 この陳述は、今日でもアウシュヴィッツの絶滅物語の動かぬ証拠として引用されている。しかしこれは、実は拷問によって無理強いされた虚偽の陳述である。

 戦後何年も経って、イギリス諜報機関に所属していた外科医バーナード・クラークは、陳述を言わせるために、他の五人のイギリス兵士と共にホェスを拷問した状況を描写している。ホェス自身、自分に与えられた指示について次のように述べている。「確かに私は250万人のユダヤ人を殺したとの陳述を行った。500万人と言えと命じられていたらそう言っていただろう。真実であろうとなかろうと、陳述は作れるのである。」

 ホロコーストの絶滅物語を大筋で認めている歴史家ですら、現在、ホェスの「陳述書」の多くは虚偽であることを認めている。現在、まじめな歴史家なら、アウシュヴィッツの死者総数が250万人、300万人などとはまず信じていない。

 さらにホェスの「陳述書」によれば、ユダヤ人は既に1941年夏からガス室で大量殺戮されたことになっている。それはベルゼック、トレブリンカ、ヴォルゼックという三つの収容所においてである。しかし、この「ヴォルゼック」という収容所は完全な作り話であり、そのような収容所は実在せず、ホロコーストの文献にも出ていない。なおかつ「ガス室・大量殺戮」というホロコースト伝説を現在信じている人々ですら、ガス室使用がアウシュヴィッツ、トレブリンカ、ベルゼックで始まったのは1942年からだったと主張しているのである。

* 文書としての証拠は何もない

 アウシュヴィッツに関する多くのドイツ側の秘密文書が戦後、連合国によって没収された。しかしそのうちの一つとして、絶滅政策・絶滅計画について言及したものはなかった。実際、絶滅物語は文書の証拠とは矛盾するのである。

* 多くのユダヤ人・囚人は働くことができなかった

 例えば、アウシュヴィッツのユダヤ人のうち「働けない者は全て即座に処刑された」としばしば主張される。年を取り過ぎている者、若過ぎて働けない者、病人、虚弱者は到着後すぐにガス室送りとなったと言われている。そして働くことのできた者のみが、死ぬまでの短期間、生存できたことになっている。

 しかし実際の証拠によれば、ユダヤ人のかなり高い割合の人々が、実は働けない状態であり、なおかつ殺されることはなかったのである。例えば、1943年9月4日のドイツ国内テレックス・メッセージが残っている。これはSS経済・管理主局の労働部(WVHA)の部長が出したメッセージである。それによれば、アウシュヴィッツの2万5000人の囚人のうち、3581人だけが労働可能であり、残りの囚人は全て(そのうちユダヤ人は約86パーセントの2万1500人)働くことができなかったのである。

 多くの囚人が働くことができなかったという事実は、1944年4月5日に出された「アウシュヴィッツ安全対策」という秘密報告書によっても確認される。この報告書は収容所責任者オスヴァルト・パウルから、SS長官ハインリヒ・ヒムラーに送られた。パウルはこの中で、アウシュヴィッツ収用所には全体で6万7000人の囚人が存在し、そのうちの1万8000人は病人か不具者であると述べている。第2アウシュヴィッツ (ビルケナウ) は絶滅収容所と見做されているが、3万6000人が収容されていた。そのうちの大部分は女性であり、約1万5000人は働くことができなかったのである。

 この2つの文書からも、アウシュヴィッツの絶滅物語は成立しないことが分かる。実はビルケナウ収容所は、主に働くことのできないユダヤ人のために建設された収容所であった。そこには病人や老人、あるいは他の収容所への移送を待つ人々が収容された。これはノースウェスタン大学のアーサー・バッツ博士の見解である。バッツ博士は「ビルケナウでの死亡率が異常に高かったのも、もともと病人や老人が送り込まれたからである」と述べている。

 プリンストン大学の歴史家アーノ・メイヤー (ユダヤ人) は、最近の本の中で「絶滅計画」について述べている。それによれば、アウシュヴィッツでは処刑されて死んだユダヤ人よりも、チフス、あるいは他の「自然死」により死亡したユダヤ人の方が多かったのである。

* アンネ・フランク

 恐らくアウシュヴィッツで最も有名な囚人はアンネ・フランクだろう。彼女は有名な日記によって世界中で知られている。しかし彼女がアウシュヴィッツ収用所を「生き延びた」ことについて知っている人はほとんどいない。彼女や彼女の父オットー・フランク、その他何千のユダヤ人がアウシュヴィッツを生き延びたのである。

 15才のアンネと彼女の父は、1944年9月、オランダからアウシュヴィッツへ送られた。数週間後、ソ連軍の進行に伴い、アンネは他の多くのユダヤ人と共にベルゲン・ベルゼン収容所に送られ、そこで1945年3月、チフスにより亡くなった。

 彼女の父はアウシュヴィッツでチフスにかかり、収容所内の病院に入院した。彼は、ドイツ人が1945年1月に収容所を放棄した時、後に残された何千の病人・虚弱者の一人であった。この後すぐにアウシュヴィッツはソ連軍に占領された。オットー・フランクは1980年、スイスで死んだ。

 もしドイツの政策がアンネ・フランクや彼女の父を殺害するものであったなら、彼らはアウシュヴィッツを出ることはなかっただろう。彼らの運命は悲劇的なものではあるが、絶滅物語とは一致しない。

* 連合国のプロパガンダ

 アウシュヴィッツのガス室物語は、その大部分がユダヤ人生存者の噂に基づいている。しかし彼らは、絶滅の証拠を個人的には何ら見たことはない。もっとも彼らがそう信じ込んでいるのも、無理ないことではある。なぜなら「アウシュヴィッツのガス室」という噂は、当時広く出回っていたからである。

 連合国の飛行機は、アウシュヴィッツや周辺地域にポーランド語・ドイツ語のパンフレットを多数ばらまいた。そのパンフレットには、収容所内の人々がガスで殺されていると書かれていた。「アウシュヴィッツのガス室」というのは戦時中、連合国の重要なプロパガンダであり、連合国ラジオ局によってもヨーロッパに放送された。

* 生存者の証言

 生存者は、アウシュヴィッツでの絶滅を示す証拠は何一つ見なかったと証言している。

 オーストリア女性、マリア・ヴァンヘアヴァーデンは1988年3月、トロント地方裁判所で彼女の収容所経験を証言した。彼女はポーランド人労働者と肉体関係を持った罪で1942年、ビルケナウに収容された。収容所へ向かう列車の中で、ジプシー女性が彼女や周囲にいた人々に「アウシュヴィッツでは囚人は全てガスで殺される」と言った。

 到着後、彼女は他の女性たちと一緒に裸になるように言われ、窓のない大きなコンクリートの部屋に入れられた。シャワーを浴びるためと伝えられた。恐怖した女性たちは、間近に迫った死を覚悟した。しかしその時、ガスではなく水がシャワーのノズルから出て来たのである。

 「アウシュヴィッツは確かに休暇場所ではありませんでした」とマリアは言った。彼女は多くの囚人の病死を見た。特にチフスが蔓延していた。自殺を試みる者も多かった。しかし彼女は、大量殺戮、ガス室、あるいは絶滅計画の証拠は何一つ見なかったのである。

 マリカ・フランクという別のユダヤ人女性は、1944年7月にハンガリーからアウシュヴィッツに移送された。一般的には当時、毎日2万5000人のユダヤ人がガス室で殺されつつあったと言われている。しかし戦後、彼女もまた、収容されている間、「ガス室」については聞いたことも見たこともないと証言した。彼女がガス室の話を聞いたのは、戦後になってからであった。

* 釈放された囚人

 アウシュヴィッツには裁判宣告の結果、移送された囚人たちもいた。彼らは刑期を務めた後、それぞれの故国へ戻された。もしアウシュヴィッツが本当に秘密の絶滅収容所であったなら、ドイツ人は決して彼らを釈放しはしなかっただろう。なぜならそうした囚人たちは、「収容所で起きていること」を知っていたからである。

* ヒムラーは死亡率低下を命令

 アウシュヴィッツでは、病気、特にチフスによる死者が相次いだ。そこでドイツの管理当局は、収容所に断固たる対抗措置を取るように命じた。

 SSの収容所管理局は1942年12月28日、アウシュヴィッツや他の収容所に指令を出した。そこでは病気による囚人の死亡率が高くなっていることが厳しく批判されている。そして「収容所医師は取り得るあらゆる手段を使って、収容所の死亡率を大きく下げるべきである」と述べられている。そして以下の言葉が続いている。

 「収容所医師は囚人の栄養状態に関して、これまで以上に監視すべきである。そして行政府と協力しながら、収容所司令官に待遇改善案を提出すべきである。収容所医師は、さまざまな分野における労働条件をできるだけ改善するよう取り計らねばならない。」

 この指令の最後では、「SS国家長官(ハインリヒ・ヒムラー)は、死亡率を劇的に下げるよう命じられた」と書かれている。

* ドイツの収容所規則

 ドイツの公的な収容所規則は、アウシュヴィッツが絶滅収容所でなかったことを明言している。

 「収容所に新しく入ってきた人々は、完全な医学検査を受けねばならない。そしてもし彼らの健康状態に疑問がある場合、観察のために隔離場所に送られねばならない。

 病人であると申告した囚人は即日、収容所医師によって検査を受けねばならない。必要であれば、医師は囚人を病院、または特別治療室へと移送しなければならない。

 収容所医師は食事準備、あるいは供給される食料の質に関して、定期的に検査しなければならない。そして欠陥があれば収容所司令官に報告しなければならない。

 事故が起きた場合、囚人の治療には特別な配慮が加えられねばならない。それは囚人の生産性を十分に保っておくためである。

 釈放される囚人、あるいは他の収容所へ移送される囚人は、医学検査のために、まず収容所医師の所へ行かねばならない。」

* 航空写真からの証拠

 1944年のいくつかの時期、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の航空写真が撮影された。当時は絶滅が急ピッチで行われていたとされる時期であり、この写真は1979年、CIAによって公表された。しかしこの写真をどれほど詳しく調べても、山積みされた死体、煙を出し続けている火葬炉の煙突、死を待っている大量のユダヤ人など、一般に言われているようなものは全く写っていない。もしアウシュヴィッツが絶滅収容所であったなら、これらは確実に写っていた筈である。

* 馬鹿げた火葬話

 一般的には1944年の春から夏にかけて、毎日、何千もの死体が火葬されたと言われている。しかし火葬の専門家は、このようなことは不可能であると証言している。

 例えば、カナダはカルガリーで大きな火葬場を営んでいるイバン・ラガス氏の証言がある。彼は裁判所で1988年4月、アウシュヴィッツの火葬話は技術的に不可能であると述べた。アウシュヴィッツでは1944年夏、毎日、1万人あるいは2万人もの死体が火葬場や火葬炉で焼かれたと言われている。しかしラガスは、このような話は「非合理で現実的話ではない」と断言した。

* ガス専門家も絶滅物語を否定

 ガス室に関するアメリカの専門家、ボストンの技術者フレッド・A・ロイヒターは、ポーランドの言わゆる「ガス室」を調査した。そしてアウシュヴィッツのガス室物語は「馬鹿げていて、技術的に不可能」との結論に達した。

 ロイヒターは、アメリカで使われているガス室 (囚人処刑用) の設計・設置に関する最先端の専門家である。例えば彼は、ミズーリ州立刑務所のガス室設計を行っている。

 1988年2月、彼はポーランドのアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクに行き、「ガス室」を詳しく調査した。これらのガス室は今残っているものもあれば、部分的に崩れかかっているものもある。ロイヒターはトロント地方裁判所で証言を行い、技術面でのあらゆる調査結果を報告した。

 結論において、彼はガス室と言われている設備は人を殺すためには使われていなかった可能性が高いと強調した。「『ガス室』と言われている設備には、適切な密閉・換気が施されておらず、これでは囚人を殺せば、一緒にドイツ人も殺してしまったでしょう」と彼は指摘した。

 ウィリアム・B・リンドゼーはデュポン社で33年間、化学研究者として勤務した人物である。彼もまた1985年に裁判で証言を行い、「アウシュヴィッツのガス室物語は、技術的に不可能です」と述べた。リンドゼーもまた現地へ行き、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのガス室を注意深く調査した。この調査に、彼は長年の経験を合わせた上で次のように述べた。「こうした方法でチクロンBを使おうなどと、誰も思わなかったでしょう。全く不可能です。」

 


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