. . .

Nazi Lauck NSDAP/AO

新枢軸

NSDAP/AO 《国家社会主義通信》
日本語インターネット版

第107-108/4号 2001 (112) 年秋

国家社会主義日本労働者党
(NSDAP/AO - SNF - NNSB 日本支部)

ミヒァエル・キューネン追悼


 10年前の1991年4月25日、我々のドイツ人同志ミヒァエル・キューネンが死去した。

 36歳足らずの短い生涯のうち8年を、彼はボン政府の政治犯として過ごした――非暴力的な政治活動のみの理由で!

 議論の余地はあったが、彼は世代中最も卓越した国家社会主義指導者であった。彼の統率、活動力、および模範により鼓舞され、若者たちは国家社会主義を信奉し能動的に推進した。

 今日彼は、ヴァルハラで我々を待っている。彼は、いつかそこで我々が合流するに充分値する人物である。我々各人がそう証明せんことを!




ディートリヒ・エカルト
――詩人、助言者にして殉教者
 


 国家社会主義運動の草創期における特別な役割は、オーバープファルツはノイマルクト出身の詩人にして劇作家、ディートリヒ・エカルトにより演じられた。彼は1919年夏にドイツ労働者党に入党した。彼の哲学的作品の頂点は、ヘンリク・イプセンの映画脚本『ペール・ギュント』のドイツ語訳で、それは1912年に出版された。エカルトはいくつかの反セム的定期刊行物の著者および編者であった; 例えば、1919以来トゥーレ協会の援助で刊行されていた週刊の『アウフ・グート・ドイチュ〔率直に言えば〕』である。ディートリヒ・エッカルトは、1919年9月にヒトラーを見出し、後者〔ヒトラー〕にとっての友人および師となった。彼は、その急進的な民族主義的、反民主的、および反セム的見解とともに、ヒトラーの思想的模範であった。ユダヤ人たちは破壊される必要があると、ディートリヒ・エカルトは1920年に既に確信していた。

 ヴァイマル共和国――当時それはごく普通だった――時代の間、当時の大統領フリードリヒ・エーベルトへの彼の反セム的攻撃に関連して人格の名誉毀損の容疑で著者を起訴することを1923年に検事が決定したとき、エカルトは面倒に巻き込まれた。直接の原因は、バイエルンの方言で書かれた小冊子『ミースバッハの私刑1922年』であり、その中でフリードリヒ・エーベルトはユダヤ人の反独勢力の道具として紹介されていた。ディートリヒ・エカルトは1923年3月12日に開かれた「ライプツィヒ国家裁判所」の法廷に出廷しなかったので、逮捕状が発行された。4月の末に、「ライプツィヒ刑事警察」がディートリヒ・エカルトを本気で追及していることが明らかになった。アドルフ・ヒトラーは武装したSA隊員に彼の家の正面で見張りに立つよう命じたが、逮捕は単に時間の問題であるかのようだった。

 クリスティアン・ヴェーバー、アドルフ・ヒトラーの数少ない親友の1人にしてNSDAPの初期の闘志の1人――彼の党員番号は15だった――は、隠遁場所を知っていた。彼には友人ブルーノ・ビュヒナーがおり、高級下宿モーリツ、後のベルヒテスガーデン上のオーバーザルツベルクのプラターホーフ、の借家権者であり、氏名手配されたディートリヒ・エカルトは彼とともに待機することができた。SA参謀長官エルンスト・ロェームは、ディートリヒ・エッカルトのベルヒテスガーデンへの目立たない移住を密かに組織した。数日後、アドルフ・ヒトラーはそこに彼を訪れた。戦争中の1941年、夜毎の独白の1つの中で、彼はオーバーザルツベルクでのこの最初の日を思い出した。

 ″私が知っていたのは、彼らがベルヒテスガーデン近くの高級下宿にいるということだけだった。4月のある日、私は妹に一緒に来るよう頼んだ。私は妹に言った。数人とそこで会議をする予定があり、ヴェーバーと徒歩で出かけるため彼女をベルヒテスガーデンに残すと。さて、急な上り坂となり、道は果てしなく続いているかに見えた。それはまさに、雪の中の狭い小道だった。「気でも触れたか?」、私は言った。「あの道には終わりがないのか? 私がヒマラヤを登るつもりだとでも思ったのかね?; 私がカモシカになったとでも? なんてこった、もっと良い場所は見つからなかったのかね? 我々の前方にまだ長い道があるのならば、私は引き返し、下山して麓で夜を過ごし、昼間に山を昇りたい。」彼: 「間もなく頂上に着きますよ」 そして突然目の前に家が見えた: 高級下宿モーリッツだ。「そこに我々の部屋はあるのか?」「いいえ、しかし屋外に置いてある靴はないので、我々は入ることができます」我々は到着を電話で告げることができなかった。「ディートリヒ・エカルトがそこにいるか見てみましょう」我々はドアを叩いた。「ディーディ、ヴォルフはここだ」彼は寝巻き姿でドアを開けた。我々は互いに挨拶を交わした。彼は大変感激していた。「明日の朝は何時に起きねばならないのか」 彼: 「7時が最高です」――私はまだ何の景観も目にしていなかった。翌朝目覚めたときは、既に明るかった。私はベランダへ行きおもてを見た。私が見たのは驚くべきものだった。ウンタースベルクの景色は言葉で言い表せない。エッカルトは既に階下にいた。ビュヒナー女史が好意的に微笑み、彼は私をビュヒナーに紹介した: 「私の若き友人のヴォルフ君です」私がかの悪名高いアドルフ・ヒトラーであると疑う者は誰もいなかった。エカルトはそこにホフマン博士として滞在していた〟

 フェルトヘアンハレでの行進が失敗した1923年11月9日――エカルトがヒトラーにそれを行うよう勇気づけた――の後、彼は次の日拘束された。心臓病が理由で、彼はクリスマスの少し前に釈放された。1923年12月26日、ディートリヒ・エカルトは55歳で死去した。彼は12月30日にベルヒテスガーデンでの山上式典にて埋葬された。この日までは、そこで彼の印象的な墓石を見つけることができた。

 1923年の後アドルフ・ヒトラーは、助言者並びに「父親のような友人」を、公にエカルトをそう呼んだように、ディートリヒ・エカルトの特別室を記念物として建設することによって称えた。この部屋の中では何を変えることも許可されなかった。先見の明のある詩人〔エカルト〕の胸像だけが追加された。在ミュンヒェンの褐色の家も追加された。1938年、プラターホーフの改築および拡張が開始された――計画は他の必要な部屋と同様に150の部屋と300のベッドを備えた家を予見していた――とき古い建物は取り壊されたが、ディートリヒ・エカルトの部屋は例外で、それは触れられなかった。新たなプラターホーフはこの部屋の周囲に建てられねばならなかった。

 エカルトは、アドルフ・ヒトラーの初期の隆盛において鍵を握る人物だった。後に彼は予言者とよく呼ばれた。運動の草創期に、アドルフ・ヒトラーをドイツ人の未来の総統であると既に発表していたからである。

 自らをディートリヒ・エカルトの徒弟とみなし、エカルトが「ゲーテに並び美しい詩を書いた」と敬意の内に述べたヒトラーは、彼の比類なき古き闘士として敬意を表した。著書『我が闘争』の中でヒトラーは、エカルトを文字通り殉教者と呼び、著書の末尾の文を彼に捧げた:

 そして私は、彼ら死者の中に、最上の人物の一人として、自分のそして我々の民族を目覚めさせるため、著述、詩歌、思索、そして最後には行為によって、自らの生命を捧げたあの男も数え入れたいと思っている:

 ディートリヒ・エカルト


忘恩

 消防隊長が燃えさかる家の正面に立つ。まだそこに子供がいると泣き叫んで女性が言う。子供を救いに猛火の中へ消防士を派遣するよう、女性は彼に懇願する。

 それが不可能だと隊長は知っている。まさに自殺行為だ。子供を救けられる見込みも、その試みを切りぬけられる見込みも、まったくない。

 にも関わらず、歴戦の消防士は夫婦に自ら歩み寄った。彼は不可能を試みることを進んで引き受けた。

 彼は猛火に突入した!

 しかし、彼が帰ることはなかった。

 後に母親は、彼女の息子を救おうとして自らの命を犠牲にしたその消防士の葬儀へ赴く。彼女は悲しみに暮れる彼の家族へ歩み寄る……次に彼女は何をしたか? ――彼女は家族の顔に唾を吐き掛け、彼女の子供を救わなかったと言って殉職した消防士を罵倒する!!!

 信じられないことだろうか?

 まさか。

 殉職した消防士はアドルフ・ヒトラーだった。猛火は共産主義による欧州侵略だった。死んだ子供は共産主義のあらゆる犠牲者だった。そして、母は戦後の欧州である。

 それについて考えられたい!

―― ゲアハルト・ラウク

フリードリヒ・ニーチェ
 
 フリードリヒ・ニーチェが1844年10月15日にプロイセン領ザクセンのルィツェン近郊のロェケンで生まれたとき、彼の父は彼が家族の伝統に従い、そして彼に先立つ父や祖父のようなルター派の牧師になるであろうと確信していた。息子が後の人生において反キリストの教えの王者にして確固たる無神論者になろうとは、誰も疑わなかった。ニーチェが5歳のころ、父親が他界した。彼の両方の叔母、祖母および姉妹を含む家庭での彼の教育の支配権は、母親が握った。

 幼少の頃ニーチェは詩歌に興味を持つようになり、初の詩を10歳のときに詠んだ。1864年にシレジアはナウムブルクにある高等学校を卒業した後、ニーチェは自分自身の関心に従い、ボン大学で神学と古典哲学とを学ぶことを決意した。1865年、彼は師をライプツィヒへ追い、教養を完成させた。古代美学とアルトゥル・ショーペンハウアーの作品とに強く影響を受け、1868年にニーチェはリヒァルト・ヴァグナーに会った。彼自身、ショーペンハウアーの熱狂的支持者だった。次の10年間、ヴァグナーとニーチェは何度か会い、彼らは互いに重大な影響を与えた。

 1869年2月、ニーチェはバーゼルでギリシャ語および文献学の教授となった。24歳で彼は講演『ホメロスとギリシア哲学』を行い、それは 批評家による歓呼を彼にもたらした。1871年、愛国者ニーチェは普仏戦争中に衛生兵として志願した。ドイツ第2帝国が1871年1月18日に建国された後、ニーチェはドイツの政治的一致が知識的一致を伴っていなかったとして不満を主張した。何年か後には、ドイツのあらゆる状況を批判した。若く野心あるニーチェは、1872年に初の主要な作品を出版した: 『音楽の精神からの悲劇の誕生』である。これは彼に自分の感性を表現する機会を与えた。この作品は文化的問題を扱い、その知的発展はニーチェを彼の第一位の疑問へと導いた: 道徳である。

 有名な神学者と哲学者との邂逅に加え、ニーチェはとりわけリヒァルト・ヴァグナーとの友情を育んだ。しかしながら、1876年に2人の男の間に疎外の徴候が現れはじめ、そして、彼らはついに親交を終えた。原因は、キリスト教と道徳とに関する彼らの意見の相違だった。ニーチェはキリスト教への狭量な傾倒およびその″奴隷道徳〟を拒んだ。彼はそれを反生命とみなした。彼は宣言した: ″神は死んだ!〟

 悪化の一途を辿る健康のため1879年にバーゼルでの教授職を断念することを余儀なくされると、彼は独立した哲学者として次の10年間を活動し、最大の作品を創出した。たいていはイタリア国内の様々な作業場所で著述し、彼は『人間的、あまりに人間的』(1880年)、『曙光』(1881年)および『悦ばしき知識』(1882)を出版した。3作の全ての中で、ニーチェは人間を、固有の美徳、習慣および道徳を選択する自由を持つ生物として描いた。しかしながら、″伝統的価値の拒絶〟に関するニーチェの概念は、個人に集中させられていたのではなく、むしろ固有の『貴族道徳』を持った選ばれし文化創造的超人を創造することが目的だった。

 ニーチェの哲学的傑作は、『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883-1885年)の中に達成された。そこで彼は、自らの理論を詩的様式で裏付けた。1886年と1887年、『善悪の彼岸』および『道徳の系譜学』が続いた。Further『ヴァグナーの場合』(1888年)や『反キリスト者』(出版は1894年)、および『ニーチェ対ヴァグナー』(1895年)のような短編作品が、彼の無神論的および反キリスト教的人生観を続けた。

 1889年1月のイタリアはトリノでの神経衰弱の後、彼はドイツのイエナ大学の精神医学施設へ収容された。彼の母が面倒を見、彼女の死後は彼の姉妹がそうした。彼は一度も正気を取り戻すことなく、1900年8月25日にヴァイマルで死去した。

 フリードリヒ・ニーチェは、実存主義哲学の案内人であると同時に、最大のアーリア人哲学者にして思想家の1人であった。国家社会主義的著述家カール・シュレクタスは、彼についてこう記している:

″人間の本性の最終的起源および基礎を探求する運動――改革によって引き金が引かれた――の文脈の中で、ニーチェは最も強制的に自分自身を文化的遺産の古い価値から解放しようと努めた。〟


運動ニュース

国家社会主義に関するもう一つの書籍。 『ヒトラー・ウイルス』、2001年にアメリカ合衆国で出版、にはNSDAP/AOについての一章があり、郵便住所さえ含んでいる。

三部から成る連続テレビ番組、1945年以降の国家社会主義運動に関する、が6月、ドイツで放映された。その結果は、NSDAP/AOウェブサイトのヒット数のもう一つの大きな増加であった!

ブルガリアでの家宅捜索が5月19日、 bhbulgaria.com ウェブサイトを破壊する意図でなされた。しかしながら、言論の自由の敵たちはそれを達成することに失敗した。

チェコ語が5月6日、およびポーランド語が4月15日、NSDAP/AOウェブサイトに追加された。このウェブサイトには現在19ヶ国語が含まれている。

ドイツのニュース誌『フォーカス』(2001年第17号)がNSDAP/AOウェブサイトについて報じた。

ドイチェ・ヴェレ (ドイツのラジオ放送) が4月10日、NSDAP/AOコンピュータ・ゲーム KZ-RATTENJAGD に言及したと報じられる。

ラウク裁判が〈再び〉延期された。言論の自由を「犯罪」と呼ぶことを拒んだ理由で、彼は「偽証罪」の容疑で訴えられている! 最大のありうる判決:懲役5年および罰金10,000.00米ドル

シュピーゲル テレビ局のラウクとのインタヴューが4月8日、ドイツで放映された。

何百万ものウェブサイト・ヒットが、NSDAP/AOにより、2001年の四半期に達成された!!!

3月6日のウェブサイト新記: 一日間に150,000ヒット!

第17の言語: 3月21日以降、ルーマニア語もまたNSDAP/AOサイト上に設置されている。

検閲と戦え: 在スウェーデンのNSFサイトと在ブルガリアのB&Hウェブサイトに対し言論の自由の敵が一時的に破壊工作を行った後、これらのウェブサイトは世界規模の国家社会主義連帯によってただちに再建された。

3月13日、ユタ・ルィーディガー博士がBad Reichenhallで90歳で死去した。 彼女は〈ドイツ女子同盟〉(ヒトラー・ユーゲントの女性版)の最高指導者であり、全人生において忠実なる同志であり続けた。我々は彼女の記憶に栄光在れ!

スウェーデン史上最大の国家社会主義文書配布! 3月11日、NSF・抵抗運動・B&H所属のスウェーデン人同志たちが、抗議ビラ50,000枚を配布した。スウェーデン人同志 Daniel Wretström を殺害した7名が何の判決も受けなかったからである!

3つの"ナチ・インターネット・スライド・ショー" ―― NSDAP/AOにより独自に造られた最初のもの ―― が2001/112年2月25~27日の間、NSDAP/AOサイトに追加された: (左) 「親衛隊芸術家ヴォルフガンク・ヴィルリヒによるアーリア人の肖像」、(中央)「第三帝国の芸術葉書」 および (右) 「第三帝国における裸体写真」。

NSDAP/AOサイト上初のスペイン語"ナチ・インターネット・ラジオ"が、2001/112年2月20日に開始される。スペイン人同志たちに感謝する!

ゲアハルト・ラウク、召喚さる 2001/112年2月15日。彼は"偽証罪"のために裁判に臨む。それは、言論の自由を犯罪と呼ぶことを彼が拒んだためである! ありうる最大の判決: 刑期5年および罰金10,000.00米ドル。

セルビア最大のテレビ局が2001/112年2月15日、NSDAP/AOの宣伝活動を報じた。セルビア人同志たちを祝福する!

独連邦警察がFBIにNSDAP/AOサイトへの対処を求める予定である(1月23日付けの独媒体報告による)。理由: ツィクロンBの挿絵。(それが単なる「複製品」であったために、ひょっとして彼らは「失望」したのか?)

ロシア語軍歌: 1月12日、発のロシア語音声ファイルがNSDAP/AOサイトに追加された。ユダヤ人専制に反対する軍歌である。 (ロシア語の『我が闘争』も2000年12月31日にウェブサイトへ追加された)

求む!

  1.  ドイツの行進曲を含む原版(1945年以前の)レコードと同様、第三帝国由来の書籍と定期刊行物。
  2.  外国語を流暢に書き(必ずしも話す必要はない)、進んで翻訳を行う同志。
  3.  情報を収集し、配布するインターネット活動家。

NSDAP/AO 日本語


Translation copyright © 2001 by The New Axis

 

This web-site was launched on 12th June 1999.
Copyright ©NSJAP, 1982-2012 All rights reserved.